そもそも なぜ という議題は、
物事、現象に関して問うべきであり
その存在自体に問うてはいけない
「象」事態の生態を問うのはよいが
「象」がなぜいるか
その答えは、「象」にもわからないのである。
私は、昔、それを自問自答した。
自分という概念より
宇宙としての人類の意味
そしてその中の1つである私の意味
文献をあさるが、
信仰、説をのぞくと
明確な答えなぞ載っていない。
信仰、説は、人が作り出した
ある思考のかたまりであり、答えではない。
いわゆる真理ではないのだ。
そこで、私が感じたのは、
私事態、意味がなさないものであるなら
私は、いてもいなくてもよいのではないか
ということだ。
多分、絶対的観点だと
この答えは、はずれではないと思う。
ただ、相対的に考えるとまた違ってくる。
人が求めている自分
自分が求めている自分
それらをとりまく環境。
そして、未知な領域
つまり未来求められるかもしれない自分
これらは考慮するものであり、
ふまえると価値とは、前者とは違う意味で確立する。
存在しているからこそ
未来永劫出てくるこの議題は
取り上げると体力、気力だけを消耗させる。
つまり簡単にいうと
考えるのには、もったいないということだ。
存在がある以上、自分自身も含め何かよって
その価値はある。
時には正、時には負に感じることがあってもだ。
その価値は、どちらとて意味があるのだ。
また、価値とは、考えて作り上げるものではなく
つくりあげられている場合も多い。
それを利用するといったこともできる。
価値とは多角的に見通さなければ、成り立たない。
その行方をきめるのは
自分自身であるということも感じている。
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